自然保護活動を推し進めるのはモラルか?それとも資金か?
今回のディベート(討論)は、野外活動の第一人者たちが著した記事をもとに、最重要の自然保護問題について2つの立場からの言い分を見ていきます。今回のテーマは「モラルの価値 vs. 金銭的価値」です。
経済ではなくモラルが自然保護の基盤であるべき
Tris Allinson: バードライフ・インターナショナル 総括科学オフィサー
無数の生物の相互作用が地球を居住可能なものにしていますが、世界を動かしているのは金です。少なくともそれは今日の自然保護活動を進める気風のように思えます。経済は保護に対して目標と証拠のある正当性を与えるように見えます。これとは対照的に、道義心に基づく論証は特異なものであり、感情的で理想主義的に思われます。簡単に言えば、モラルは心で、経済は頭のようです。
ほとんどの自然保護活動家は科学的な経歴の持ち主で、自身を事実と良識を公正に提供する存在と自認しています。彼らにとって最悪の主張とは情緒的愛着や感情的な言動です。自然保護生物学者を怒らせたいなら彼らのことを「tree hugger: 急進的環境保護運動家」と呼んでみてください。自然保護活動家は通常、精神的な課題よりも経済の経験に基づく仮定の方が居心地が良いものです。
もし私たちが本当に自然保護を厳密なビジネスとする構えがあるなら、何も問題ありません。けれども、私が疑っているように、もし自然保護コミュニティの中に隠された「tree hugger」の気持ちが潜在するなら、経済的な力が作り出す解決策は私たちの心のなかにある道義心にはしっくりしないでしょう。例えば、絶滅の恐れがあるクロサイを保護するための一つの方法は、大金を支払うことが出来る金持ちのトロフィー・ハンターに何頭かを殺す権利を認めることです。これはクロサイの個体数を持続可能な管理を行う金銭的なインセンティブとなるでしょう。純粋な経済的観点から見ればこのような戦略は理に叶っていますが、多くの自然保護活動家はこのような提案に対して心の中の‘tree hugger’から生じる心の痛みを感じるものと私は思います。私たちの多くの心の底には、娯楽のためにサイを殺すことに対してモラル的に不愉快に感じる性質があるのです。
こうした倫理上の考えを抑圧することは不誠実であり、そうしたからと言ってより良い環境保護生物学者になれるわけではありません。マイケル・サンデルが素晴らしい著書「それをお金で買いますか?」の中で主張しているように、市場原理はモラルの根拠を欠いては不完全なのです。実際にはモラルに基づく保護の主張はあらゆる点で経済に基づく主張と同様に堅固で普遍的です。クロサイの狩猟にモラル的に心を乱されない人が多く居ることは事実ですが(自由市場経済に納得していない人も同じくらいいる)、このことは自然保護の倫理を共有している人々の層は幅広く、かつ拡大しているという事実を損なうものではありません。
バードライフ・パートナーシップはこれを具現化したものです。119の国の団体、世界の1,300万人のメンバーおよびサポーター、社会のあらゆる階層からなり、これらが経済的現実主義あるいは市場第一主義ではなく、自然界への相互愛と関心で結ばれているのです。
心と意思を明確なモラルを理由に駆り立てることで、歴史上の巨大な社会の流れ、即ち、人間性のモラルの中心を根本的かつ永久的に良い方向への流れをつかんできました。このような動きは経済的にも私たちを利しました。けれども経済的な動機はその原動力にも、重要な達成理由にもなりませんでした。奴隷解放運動の核心的な遺産は、やる気のない奴隷が意欲的な労働者や消費者へと生まれ変わり、最終的にGDPにも貢献したことであるということに真剣に異を唱える人はいないでしょう。
自然保護の課題は社会のあらゆる部分でより強く認識される必要があります。私たちは主張やアプローチの多様性が不可欠です。自然保護のためには確固たる経済的論拠をしなければなりません。自然の価値が世界の経済システムの中で適切に認識されるのを必ず実現させなければなりません。けれども、経済を私たちの保護活動の基盤たる哲学と認めてしまい、活動のモラル的な基盤を弱めるべきではありません。
保護活動家として経済の原理と用語を学ばねばならないとするなら、彼らはモラル的な根拠の基盤も学ぶべきです。簡単に言えば、自分の心に秘めた「tree hugger」を開放しなければなりません。自然保護のためのモラルの問題をはっきりさせることによって初めて、私たちは生物多様性の危機を乗り越えられる流れを作り出すことができるでしょう。
経済評価側の答弁
Pepe Clarke: バードライフ・インターナショナル 政策部長
この混沌とした世界において非常に単純な事実を無視してはなりません。自然保護の先行きは、人々に事実を如何に伝え、そして消費者、生産者、政策立案者そして広く一般大衆の意思決定に影響を及ぼすことができるかどうかにかかっているのです。スーパーマーケットの商品棚から議会のホールに至るまで、財政は私たちの意思決定に強く影響します。
「自然に金銭的価値を定めること」に対しては、本質的に非倫理的で究極的に自己破滅的だとする批判があります。何故ならそれは自然を商品におとしめ、生活のあらゆる側面を経済取引に転換しようとする政治的思想を強めるからです。これらの批判は無益なだけでなく、多くの重要な点で議論を単純化し過ぎる傾向があります。経済評価は自然が人にもたらす恵みをより良く理解することにつながり、それが自然保護の強化にもつながるのです。
1997年にニューヨーク市の上流域を保全するための費用は15億万米ドルと推定されましたが、これは市のニーズを満たす水処理工場の価格80~100億ドルのほんの一部にすぎません。その時以来、市はその集水域を守るために意欲的なプログラムを実施し、住民、土地所有者および野生生物に利益をもたらしてきました。
賢明に利用すれば、経済評価は自然と人の双方に悪影響のある誤った決定を防ぎ、環境劣化の影響を明確化します。タイでは研究者が手付かずのマングローブの森が地元の漁民コミュニティにもたらす利益は、エビの養殖場への転換により得られる利益の10倍以上になることを発見しました。今後数十年の間、気候変動によって私たちは難しい選択を迫られるでしょう。沿岸の防御と洪水制御から水の供給や食糧生産までの様々な方面で、私たちは新しい考え方や解析手段を必要とする新たなジレンマに直面するでしょう。
自然の生態系の価値を研究すれば経済理論と実践の境界を低くしてくれます。伝統的な経済モデルは体系的に自然を軽んじ、環境災害を外部要因として扱い、自然界には資源が無尽蔵にあるものと捉えてきました。自然の幅広い価値をより適切に扱う経済モデルと手法は、こうした限界に取り組む機会となります。歴史的に、自然の美、壮大さ、無限の魅力への理知的、感情的、あるいは精神的な反応に基づく環境擁護の動きは目覚ましい成果を収めてきました。
世界中で何百万ヘクタールもの土地が国立公園として、その経済価値を分析せずともうまく保全されてきました。けれども私たちの自然保護の目的が一層意欲的になり、同時に人間の自然への圧力が益々強力かつ広範囲になるのに伴い、自然保護活動は益々社会、経済開発計画と直接競合することになります。自然保護を経済的観点から捉える能力に磨きをかけ、産業界の誤った主張に対して確固たる批判を展開することは、21世紀における自然の運命を決定づける場における私たちの持ち札を強めることにつながります。
究極的に、ドライな経済解析は純粋な自然への愛に置き換わるものではありません。けれども私たちは、私たちが如何に自然に依存しているかをより理解し、自然界と調和して生きて行くようにするツールとして、経済解析の価値を認識しなければなりません。
報告者: バードライフ・ニュース